私の周りの「ユニーク」「変」「おかしい」人たちについての観察日記です。
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11/08
私の戦争体験
第二次世界大戦の話です。
当時まだ小さかった私は、つぶさに記憶しているというわけではないのですが、幾つか断片的な記憶があります。

ある時、庭で遊んでいると空襲警報が鳴りました。思わず空を見上げると、空一面に小さなB29と書かれた飛行機が見えました。米軍機です。それに対し日本の飛行機は2〜3機でしたが、大きく立派で心強く感じました。でもそれは、日本の飛行機はすでに燃料が乏しく、低空しか飛べなかったということを後で知りました。

近くのお寺の境内に、高射砲が設置され、B29がそれを目がけて飛んでくるようになりましたが、そのコースが家の庭の上空でした。ある時母が「撃たれた!」と叫んで防空壕に飛び込んで来ました。庭で機銃掃射されたというのです。母は撃たれてしまったと思ったのですが、幸い外れていて無事でした。後で父が調べると、母が足をかけていた木製の階段に、弾の痕があったそうです。

そんなこんなで、疎開をすることになりました。
今は「帰省ラッシュ乗車率150%」位でも、ええっ、と驚きますが、当時の汽車はそれどころではありません。床に座ることなど当たり前でしたし、ドアも開かなくて窓から乗り込む人も大勢いました。
疎開のその日、家族と共に床に座って汽車にゆられていました。上の兄は5才年上で、私など相手にしてもくれず、父母も私どころではなく、私はぼんやり母の背中に寄りかかるように座っていました。
しばらくすると、側にいた子ども連れの若いお母さんが、がさごそと新聞紙に包んであるものを取り出しました。
出てきたのは、蒸かしてある大きな一本のサツマイモです。
目が離せなくなって見続けていると、お母さんはサツマイモを二つに折りました。黄色くてほくほくして美味しそうで、思わず生唾を飲み込みました。そしてお母さんが連れている私より少し小さい子が、今からそれを食べるのだと思うと、とても羨ましく思いました。
すると、お母さんはなんとその半分を私に差し出したのです!
信じられない気持ちと、うれしさの入り交じった感動でした。
物資のないあの時代に、見も知らずの子にサツマイモを分け与えるということは、なかなか出来ることではありません。
その時私が受け取ったものは、サツマイモだけではなく、他人を思いやる温かい気持ちでした。
あの感動今も忘れられません。

それ以外にも、防空壕、警戒警報、防空頭巾、ゲートル、千人針、焼夷弾、艦砲射撃、などの記憶もありますが、なんといっても私にとって一番の戦時中の記憶は、このサツマイモを貰ったことなのす。
この感謝の気持ちは、今もずっと私の中に生き続けています。

この記事へのコメント

 戦中もさることながら、戦後の食糧難もひどいものでしたね。ある時期私は栄養不良と
診断され、その日から朝食のお味噌汁に私の分だけ玉子が他の具の下に隠すようにして
入れられるようになりました。 今では考えられないことですが、当時は玉子は大変貴重な
食品で、家族の皆が毎日口にできるものではありませんでした(少なくとも我が家では)。
私は弟達に見つからないようにその玉子を食べなくてはならず、それが苦痛でなりません
でした。 母は後に、私が栄養不良と言われたことがとてもショックだったと話していました。
きっと多くの母親が、程度の差こそあれ、同様の思いをしながら苦労して子供を育てていた
のでしょうね。
[URL] 2008/11/13(木) 21:41 [EDIT]

そうですね。私は一番小さかったので、玉子を食べさせて貰っていました。それで戦後何度も「貴方には玉子を食べさせた」と姉に言われて、少しむかつきました。
こんちゃん [URL] 2008/11/13(木) 23:03 [EDIT]

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