私の周りの「ユニーク」「変」「おかしい」人たちについての観察日記です。
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07/25
土居健郎先生逝く
尊敬する恩師が亡くなりました。
葬儀は家族だけで行い、後日「偲ぶ会」があるとのこと。
家族だけでという所には当然遠慮した方がいいと思いましたが、若い頃からカソリックの信者だった先生の葬儀は、イグナチオ教会でということが判り、参加することにしました。カトリックの葬儀のミサは初体験でしたので、少し緊張して出掛けました。さすがに仕事関係者は数えるほどしか来ていません。
簡素なミサで、「沢山の弔電が来ていますが読み上げることは省略いたします」「家族だけのミサですし弔辞も省略いたします」と、日本的なものは全部カット。
長男の父親を悼む言葉も、「良い父、良い夫でした。家族を慈しみ、会話を楽しみ、よく冗談を言う人でした。それも人が笑う前に自分が先に笑ってしまうのでした」といった、ファミリアルなものでした。
先生の業績など誰も一言も触れません。

私にとっては、この数年の先生の弱り方には辛いものがありました。先生から数ヶ月前に頂いた手紙は別れの手紙でしたし、最後の手紙は人生を全うするのも楽ではないと書かれ、こういう愚痴を言うのも「甘え」だとありました。胸が押しつぶされるような気持ちでした。聖路加病院での緩和ケア病棟への勧めを断り、自宅に戻って4日目に亡くなりました。

ミサの間に二つの印象深い事がありました。
ひとつは、私の周囲では死を前にして洗礼を受ける「にわか信者」が結構いますが、自分にはそれはまずないだろうと確信したことです。いままでは、海外の小説を読んで育った来ましたし、一番好きな作家はキリスト教伝道作家とまで言われるセルマ・ラーゲルレフでもありますし、今は洗礼を受けていなくても死を前にしたとき自分もそうなるかなと考えることがありました。ところが、久々に(小学生の時一年間教会に通っていました)神の話を聞いて、自分はとても神の存在を信じられない、と判ったのです。そんなわけで、洗礼を受けることはあり得ないことが確信されたのです。
もう一つは、神という存在はあるだろうけれど、それは誰の中にもある救いを求める、或いは自然への畏れのようなもので、結局はそれは一人或いはひとつのものと思っていたのです。それと同じことをミサの時に隣の元同僚に言われたのです。神父が聖体拝領の祝福をするというのがあり、信者でなくても祝福ですから希望者はどうぞ、と声が掛かりました。私は元同僚でしかも神社の神主でもある人と並んで腰掛けていたのですが、二人とも祝福の列に加わりませんでした。そして彼に「私たち受けられませんよね。まして貴方は」といったのでした。すると彼は「いえ、受けたこともありますよ。神はお一人です」と言ったのです。その時なんだかすごくすっきりしたのです。神主が言ったことなので余計そう思えたのでしょう。

恩師の葬儀ミサに出てよかった。
今まで容体が何時も気になっていたのが、今後その心配が無くなると思うと、なんだかほっともして、夏の暑い日差しの中をぼーっと帰って来ました。

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