私の周りの「ユニーク」「変」「おかしい」人たちについての観察日記です。
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03/25
卒寿のお祝い
ホームの知人の一人が、卒寿のお祝いのパーティーを開きました。
そこで、ダンスを披露するとのこと。ダンスがとても上手なことは知っていましたが、卒寿でダンスのデモ?!
「なにを踊られるのですか、ワルツ?」と言った私に、「タンゴとフォックストロットよ」 の返事。ますますビックリ。

20数年前に大腸癌を患って、ストーマ(人工肛門)を使っているのに、週3回ダンスのレッスンを受け、買い物にも出かけ、他にも趣味がいろいろ。それにしても、デモを2曲踊るって、すごいことです。そのダンスが大腸癌の手術を受けた後、「(体調不良に)負けてなるものか」 と始めたものだそうです。
社会的に大成功を収められている夫の元で、ただ主婦をやっていたわけではないんですね。

勿論参加させて貰いました。
素晴らしい衣装で現れた彼女は、想像していた以上に完璧に踊り上げました。ブラボー!!
年寄りが踊るデモは、道化になっちゃうことがほとんどですが、そんなことなく、ただただ感動を誘いました。
その日気管支炎を起こしていた私は、熱があったのにもかかわらず、がむしゃらに参加。ダンスタイムは初めから踊るつもりもなく、上はドレスアップしていましたが、靴は運動靴を履いていました。
でも、その感動の余波で、誘われてダンスの先生と踊ってしまいました。何年も踊ったことがないのに、プロとこうやって踊る最後のチャンスだなあ、と思うと切なくて、一生懸命踊りました。
踊り納めでしょう・・楽しかった!
あ、部屋に帰ったら熱が下がっていました!

03/18
追いついてきたウイルス
いよいよウィルスが迫ってきました。
毎日朝食を一緒にする5人の中の1人が朝電話を掛けてきて、「ノロにヤラレタ!」と弱々しい声で言いました。あんなに元気だったのにと驚く。
でも、毎朝食事が一緒とは言え、親友のAさんと夕食で家族のようにしている密な空間でもないので、自分は大丈夫だと安心していました。それに私は、食中毒には強い人なのです。

若いころ、中学時代の友人男3人、女2人でよく旅行に行ってました。
ある時、輪島に泊まっていたときのこと。夜中に1人が七転八倒の腹痛。医者の往診を頼みました。
「東京もんは新鮮な魚くっちょらんから当たったんだよ。あんたらにもうつるよ」との見立て。移るって!私が一番面倒見ていたのだから、大変。でも罹りませんでした。
八甲田に行ったときのこと、東京に帰り着き、解散する前に渋谷の食堂に入りました。
皆でにぎり寿司を取り、食べていると、なんか鮪が変な味なのです。「ねえ、これ変な味」と私は言って、もう一つを頬張りました。
他の者も、うん変だと言いだし、最後の一人が「どれどれ」と口に入れて、「これは腐っている!」と吐き出しました。
私以外は全員お腹を壊し、口に入れただけで吐き出した人が一番重傷でした。
この時以来、食中毒にはならない、という変な自信を持っています。

朝友の感染は、ホームの経営会社から昼に電話がかかり、一緒に食事をした4人は、3日間人が集まるところへの出入り禁止。
今まで、居住者への遠慮か、こういった対応をしてこなかったので、むしろ私は賛成です。でもその第一号が自分がなるなって思いませんでした。
本を読んだり、このブログを書いたり、録画を消化したり、ゲームをしたり。本は、恩田陸の「夜のピクニック」を再読。
禁足という初めての体験、ちょっと楽しい。
03/11
あぶない、あぶない
今年はインフルエンザもノロウイルスも大流行。身近でも罹った人がいて、次は自分かとはらはらしていました(過去形にしても大丈夫かな)。

会議の席で、目の前の若い子のほっぺたがだんだん赤くなっていきます。リンゴのようになった時、演者の発言を遮って、「熱が出ているようだけれど、大丈夫なの?」 と言ってしまいました。本人は、何時も平熱高いので、と言いながら熱を測ってきますと退室しました。すぐに「熱も37度しかないし、気分も悪くないのですが、今日は早引きします」との伝言が入りました。
あれは、インフルエンザですねえと噂し、会議は続きました。
その日から連続して数日休んだので、ほらやっぱりと思っていると、「私ノロウイルスだったんです!大変でした!」と出勤第一声。
「早引きして良かった」とのこと。ノロかあ。
他は誰も罹らなくて、よかった、よかった。

友人と昼食をしました。
楽しくてお喋りがつきず、はっと気づいたら4時間も経っていました。慌てて出て、でも食事の後はお茶でしょう、と喫茶店にも入り、私は疲れ果て、予定していた買い物もせずまっすぐ帰りましたが、何時も元気な友人は、2~3日分の食材を買ってから帰ると雑踏の中に消えて行きました。
1週間たった頃、メールが来ました。私と別れて買い物をしている途中、なんか気分が悪くなり、お腹でも壊したのかなとタクシーを拾って帰宅。その時既に39度の熱があったそうで、近くの病院を受診した時には40度を超えていて、インフルエンザですが一人住まいなら入院しなさいと一泊させられちゃったのよ、とのこと。

ノロもインフルエンザもすぐ目に前にまで迫っていたのかと思うと、ひやっとしました。あぶない、あぶない。

03/04
兄の入院②前科
兄の入院で、兄妹とはいえ離れて生活をしていると、些細なことから大事なことまで知らないことがいっぱいあることに気づかされます。

まず、部分入れ歯だと思っていたのに、ベッドに横たわる兄の顔が亀のようで、側に総入れ歯が転がっているのには驚きました。
次に、眼鏡がないないないと、離すまじと抱えているバックの中の捜し物が、あまりにもらちがあかないので、バッグを奪うようにして中を探すと、眼鏡以外にも、小さいライターが出てきました。
20年前に肺癌をやった時、止めたはずのたばこ、止めてなかったのですね。(本人は否定しましたが、指にも茶色いシミが)。
黄疸が出てかなり大変な状態なのですが、兎に角一時外出をしたいという希望。どうしても出たいと、ちょっとした騒ぎなのです。ドレーンつけて、両手は点滴、当分禁食という状態なのですが、自分しか出来ないことがあるので1時間で良いから帰して欲しいと言い張ります。しかも、今にもベッドから降りて帰ってしまいそうなのです。歩けないでしょうに。たばこが吸いたいのでしょうか。

やっとなだめて、兄の携帯の充電器を買いに病院内の売店まで行きました。エレベーターを待っている間、何気なく病院のスタッフらしき女性に売店一階ですよね?と確認すると、親切に案内してくれました。
お礼を言って、ついでに職種をききました。というのも、医師でも看護師でもない制服。すると個室病棟の受付をしています、との返事なので、「そうなんですか、兄が昨日その病棟に入院したんです。○○です」と言うと、「ああ、○○さん。去年入院中に帰ってしまった方ですね」、ですって。
入院したことも、帰ってしまっていたことも誰も知りませんでした。
脱院の前科持ちだったのです。

2週間目近くに3時間の外出が認められたと電話があった時には、誰も信じませんでしたが、本当でした。主治医が根負けしたんですね。これからも大変そう。

02/25
兄の入院①ライン
朝の9時過ぎに兄の具合が悪いと電話がありました。
大学時代仙台に下宿、駐在員としてロンドンに2年滞在、それ以外は、ずっと実家で父母や姉と生活をしていた人です。
父母が亡くなり、姉が認知症になると、必然姉がやってきたことを引き継ぎ、さらに姉の面倒を見ることになりました。大病はしているものの、普段風邪一つひかない元気な人です。住み込みの家政婦もいます。

電話をしてきたのは、その家政婦で、倒れたので駆けつけると、呼びかけに全く反応せず、目が真っ黄色だったそうです。たまたま姉の入浴サービスのために来た看護師に血圧を計って貰ったら上が68、更に失禁しているとのこと。救急車呼んで下さいと頼みました。
救急隊員が電話をしてきて、受け入れてもらえるかどうかわかりませんが希望はどこですかとのこと。兄は東京医療センターに20年以上掛かり、今も掛かっていると思いますから、保険証や診察券がなくても受け入れてもらえますと伝える。

しばらくして、同じ隊員から、受け入れてもらいましたと報告があり、いろいろ聞かれたのですが、なにを聞かれたのか今は全く思い出せません。
病院から電話連絡がいくと思いますので、外出しないで下さいと言われる。
12時半になってやっと病院の看護師から電話。
関係を聞かれたりした後、こういう連絡はどのように?と訊かれ、戸惑っていると、ラインされますかと尋ねられる。え!今は病院からの連絡がライン??
ラインはしませんというと、詰問調で「どうしてですか」と。フェイスブックはするんですがとしどろもどろの私。
すると、どこにお住まいですかと切り口が変わる。場所を言うと来院されますかというので、ハイ30分で行きますと答えると、じゃお待ちします、となりました。
電話を切った後、連絡方法にラインを使うのかと思ってしまったのは間違いで、ラインというのは来院だったことに気づき、オーバーに腕を通しながらしばし笑いました。
救急センターに駆け込むと、兄がベッドから小さい声で、「やあ、悪いねえ」と言ったのでした。
喜ぶべきなのに、ちょっと拍子抜けでした。
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